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東大阪市の賃貸物件
東大阪市 賃貸物件一覧
- 大阪府東大阪市エリア情報
- 東大阪市は技術力の高い中小企業が多数立地するものづくりのまちとして全国に知られ、また近年ではラグビー専用スタジアム東大阪市花園ラグビー場(ひがしおおさかしはなぞのラグビーじょう)を擁する事により「ラグビーのまち」として全国的に名前を知られている事でも有名であり、それらをアピールする形でまちづくりを行っている。将来は堺市に続き政令指定都市への移行及び、隣接する八尾市や柏原市などとの市町村合併の構想もあるが、現時点では計画の実現に至っていない。地理的特徴として、大阪平野の東部に位置し東大阪市の大半は平坦な低地である。東大阪市の東部は生駒山系の山々が連なっており、現在でも豊富な自然が残されている。主な河川には、長瀬川・恩智川・玉串川・第二寝屋川などがある。
東大阪市は日本有数の中小企業の密集地であり、高い技術を持った零細工場が多数集まっている。2002年12月に東大阪宇宙開発協同組合(現・宇宙開発協同組合SOHLA)を設立し人工衛星の開発を進めるなど、世界シェアを占める企業も多い。面積に対する工場の割合においては全国1位。工場の数も大阪市や横浜市などの政令指定都市を除くと1位である。しかし近年では減少傾向であり、工場跡地に住宅が建てられるケースも多くみられる。2007年には製造品出荷額で隣市の八尾市に抜かれ、2011年のみ東大阪市が上位に返り咲いたがその差はなおも広まりつつある。江戸時代には木綿栽培が行われ、木綿を加工するための小規模な工業が発展していた。明治維新で家内的な木綿工業は一気に壊滅したが、残された技術が、現在の当地を支える技術力の原動力になっていった。尚、現在では全国的に回転ずしが広まっているが、こちらは日本で初めての回転寿司店である元禄寿司が開店した町でもある。
【東大阪市の歴史】
市域は令制国の河内国中部にあたり、古代にはこの一帯は河内湾と呼ばれる大阪湾の奥にある小さな湾であったが、次第に海から分離して湖となった。その湖が大和川を経て上流から運ばれてくる土砂が堆積したことによって徐々に陸地化し現在の様な平坦な低地が広がった。物部氏が本拠地を置いた場所でもあり、物部守屋の最期の地は衣摺(きずり、市西南部)であるなど、早くから開けた地域として栄えた。飛鳥時代には中国大陸への玄関口であった難波津との街道筋にあたり街道筋には多くの集落ができた。奈良時代になると、平城京と難波津を結ぶ街道が整備され、その街道筋にも多くの集落ができた。平安時代になり、熊野詣や高野山へ上皇や貴族が参詣に訪れるようになり、その街道として生駒山麓を辿る高野街道が利用された事により、この沿線にあたる東大阪市の東部には多くの集落が点在しており、今もなお旧村として市内に静かなたたずまいを残している。この時代、枚岡神社の勢力が大きく、それを背景とする水走氏が有力な領主として東大阪市東部を中心に活動した。室町時代初期、河内守護に任ぜられた畠山氏が若江城を築き、河内を統治する拠点とした(現在若江城は城跡のみのこる。若江周辺には古い屋敷等が現在も残り、城下町としての名残を感じる事が出来る)。以後畠山氏の守護代の遊佐氏がこの城を治めるが、応仁の乱やその後も続いた家督争いによって衰え、城主は細川氏や遊佐河内守長教、三好氏など転々とする。最終的に城は織田信長の家臣となった三好義継の旧臣の若江三人衆が治め、石山本願寺攻めが始まると織田方の拠点とされ、織田信長もこの城で指揮を執るなどしたが、両者が和睦した後に廃城とされた。またこの付近は大坂夏の陣における若江の戦いの舞台としても知られ豊臣方の将木村重成の終焉の地でもあることで知られる。江戸時代中期以降、中甚兵衛らの嘆願によって大和川の付け替え工事が行われると新田開発が大坂の商人らによって積極的に推進された。また商品作物の栽培も盛んで、木綿の産地として名の知られた存在だった。しかし東大阪市の中央部においては長い間、北にある深野池や西にある新開池、そこに注いでいる付け替え前の大和川の為に長らく湿地帯で、東大阪市の市域で早くに開けたのは、確かにこれら大和川の流域と高野街道沿いの地域ではあるが、開発は遅れがちであった。室町時代以降、河内国の行政の中心であった若江城でさえ、四方を沼地に囲まれた難攻不落の平城として記録されている。